犬鳴 村。 犬鳴村行ってきた!犬鳴村伝説や地図が示す場所とは?

犬鳴村

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しかし、その脇道は細心の注意を払わないと見過ごしてしまうレベルのとのこと。 その脇道を進むとやがて入口が姿を現し、「この先、日本国憲法は通用せず」と書かれた看板が立てられているそうだ。 噂2: 「犬鳴村に入った物は生きて帰ってこれない」 犬鳴村に入った者は生きて帰ってこれないそうだ。 というのも、同村には様々な罠が仕掛けられており、それに引っかかってしまうと住人たちが斧や鎌などで襲いかかってくるのだという。 また、住人たちはかなりの瞬足の持ち主のため、逃げ切ることは不可能だとか。 噂3: 「電波は一切通じない」 犬鳴村には電波が通っておらず、携帯電話やスマホは当然のごとく圏外。 住人たちに追いかけられようにも警察に通報できないというわけだ。 なお、同村は日本の地図上から抹消されているため、実在しないことになっている。 その後は住人たちが自給自足の生活をし、外界をシャットアウトそうだ。 なお、現在では日本政府から「特別保護区」として指定されており、一切の法律が適用外との噂も。 噂5: 「破壊されたセダンが目印」 同村の広場には破壊されたセダンが置かれているのだという。 これは以前に島根から旅行にきたカップルの車とのことだが・・・。 このように嘘のような都市伝説は多々ある。 では、本当に犬鳴村は実在するのだろうか? スポンサードリンク 犬鳴村の「日本国憲法は通用せず」の看板は嘘なのか image: 犬鳴村でもっとも注目されているのは、「この先、日本国憲法は通用せず」と書かれた看板である。 仮にこのような看板が実在するのであれば、それこそ都市伝説レベルでは済まないのだが・・・。 調べてみると、に興味深い話が掲載されていた。 その情報によると、どうやら日本国憲法が通用しないと書かれた看板における噂は嘘でもないようだ。 これは実際に犬鳴峠にドライブに行った方の話だが、今から20年ほど前、まだ旧犬鳴トンネルが封鎖されていない頃、Aさんは友人と二人で同トンネルをドライブした。 すると若宮側の出口付近に上へ登っていける細い道があり、その道を進んだという。 すると、 赤色をした鉄門に「この先何があっても責任は取れません。 」と書かれた看板を発見。 さらに進むと、左手に一軒の農家と思われる民家を発見したそうだ。 しかし、そこから先へは進むことをやめ、引き返したのだという。 (参照:) このように村があったかどうかは別として、犬鳴峠に暮らす住人がいたことは事実だろう。 また、現地に詳しい住人の話によれば、犬鳴村もしくは犬鳴峠がある場所はヤクザが死体を捨てに来る場所であったり、警察の管轄外という噂が流れているのだという。 話を整理すると、「この先、日本国憲法は通用せず」と書かれた看板の正体は、「この先何があっても責任は取れません。 」と書かれた看板のことであり、それは日本国憲法が通用しないとの呼びかけとは異なるものだと推測できる。 「責任が取れない」というのはその先の道が険しく、落石などの危険性を警告しての看板だったと考えるのが自然。 ということで、日本国憲法が通用しないとの看板における情報は完全に嘘というわけではなさそうだ。 噂は嘘じゃなかった?村が実在したという記録 image: さて、最後に犬鳴村の実在についてまとめたい。 結論から言うと、同村は1691年から1889年にかけて福岡県鞍手郡に実在した(文献からの結論)。 だが、都市伝説で語られるような差別、隔離、自給自足の生活、危険な住民などはまったくの嘘である。 なお、犬鳴村は1889年4月1日に施行された町村制度により周辺の村と合併。 これにより「吉川村」が発足し、同村の一集落となった。 その後は市町村合併が数回に渡って行われ、現在は「宮若市犬鳴」となっている。 ちなみに犬鳴村だった区域は現在、巨大ダムの建設により湖底に位置しているのだという。 このように犬鳴村は確かに実在したものの、都市伝説で語られるような情報は事実無根だった。 ちなみに現在犬鳴峠は全国的にも有名な心霊スポットとなっている。 時効だと思っているので詳しく話しますが、犬鳴村はもう無くなりました 伝統を受け継ぐ人がいなくなったので。 実在していた犬鳴村は実は2つありました。 一つは公式の文書に記載された福岡県の犬鳴村。 もう一つは和歌山県と大阪府の間にある犬鳴山のそれた山奥にある村です。 今はもうありませんが、そこにはかつて十数人の人が住んでいたようです。 都市伝説だと言われている犬鳴村伝説は、後者の方です。 検索すると、福岡県の方が出てくるのは、そちらは「犬鳴村」で登録されていたからです。 後者は本来別の名前がついており、行政にはとある理由により住所が登録されておりませんでした。 前者が有名になったのは、正直言ってありがたかったです。 申し遅れましたが、犬鳴村のことについて詳しい者です。 あなたが住んでいたのか?とかそういったことはお答えできません。 どうして犬鳴村ができたか、等々話します。 まず、ここからは福岡県の犬鳴村について述べる時は「福岡犬鳴村」と書きます。 和歌山の犬鳴村は場所は詳しく教えられませんが、犬鳴山の近くだと思ってください。 えたや非人という言葉をご存知かと思いますが、かつてそういった人々が町から追いやられ住んでいました。 これはいつの時代の事かあまり分かりません。 えたと呼ばれる人がいたより以前かもしれませんし、とにかく人間扱いされない奴隷のような人々が集団で暮らし始めたのが犬鳴村の原点です。 その頃は 私も人伝で聞いたことですが とにかく貧しい暮らしだったそうです。 ですが、山奥のかなり奥なので、人はほとんど寄り付かず、たまに猟師が上って来る程度だったそうです。 このころの話はおそらく江戸時代とか、武士のいた頃のことだと思います。 この話を随分昔に聞いたので、私も曖昧な記憶をたどっていますが、とにかく、小学生の僕が近所に住んでいた元えたのおじさんと仲良くなって、こっそり聞いたお話です。 今思うと、多分そのおじさんは犬鳴の人ではないにしろ、同じえたの人々とのネットワークがあって、詳しかったのだと思います。 まだそのおじさんはご存命だと思いますが、親族がいないそうで、どこにいるのか分かりません。 連絡が取れません。 話を戻しましょう。 犬鳴村にいた人々はもともと虐げられた生活を送る人々でした。 これは結構最近までそうだったそうです。 理由は同和地区だとかえたとか言われる人々だったからです。 なぜ都市伝説化したのかというと、山奥にあった犬鳴村の少し近くに道路が開通し、人の往来が激しくなったからです。 それまではたしかに道路はありましたが、好き好んで通れるような道ではなかったそうです。 実はそれまでは案外平穏に暮らしていたそうです。 あまり人の寄り付く場所でないことと、逃げたような形なので、町に下りても他の人々に気づかれなかったのだとか。 時折、山奥では補えないものを、町で買ったりしていたと聞きました。 生活はほぼその日暮らしで、食べ物は山で調達するようなそういう暮らしだったそうです。 道路が開通するまでは本当に平穏だったそうです。 問題の道路ができてから、その道路は心霊スポットとして名をあげました。 田舎道であることと、八つ墓村などの影響でしょう。 いまだによく出ると言われていますが、その真相は分かりません。 心霊スポットと呼ばれ始めてから、地元の若者たちが寄り付くようになりました。 たまに「こっち面白そう」みたいな感覚で逸れた道へ入り、犬鳴村まで近づく人が増えてきました。 これには今までの平穏を壊されかねないと危惧した住人 もうこのときにはかなり少ない が看板を立てたりしました。 実際にはそんなことは書いてありませんでした。 もう捨てられているので残ってはいませんが、実際には「イノシシ危険」とか「この先通行不可」などがあったそうです。 たしかに行き止まりなので、嘘ではありません。 そんなこんなで話が膨らみ、都市伝説化しました。 やがて、そこに人々は住んでいられなくなりました。 見ず知らずの人間が立ち入りそうになったことと、このご時世かつての暮らしを継続するのは困難になった事と、部落の人間に対する差別がなくなりつつあるためでした。 元々いた人々はかなり高齢になり、山奥での生活がかなり厳しくなっていたのも理由の一つです。 そうして山から下りてきた人々は、ほどなくしてほとんどの人が死んでしまったそうです。 跡継ぎなどがいないのは、村に女たちが少なかったことと、部落の人間は居なくならなければならないと考えてのことでした。 そうして犬鳴村は伝説だけを残して平成の世に消滅いたしました。 伝説のことについて答えますと、 噂1は嘘です。 話が膨らんでしまっただけです。 ただ、脇道を進む、というのはあながち間違いではありません。 車では通れないぐらいの脇道なので、細心の注意がいるのもたしかです。 憲法が通用しない旨の看板はありません。 別の内容の看板はありました。 噂2は嘘です。 イノシシ用の罠はあちこちにあったので、もしかしたら本当にそれでケガをした人もいるかもしれませんが、この可能性はかなり低いでしょう。 あそこは容易に入れる場所ではありません。 住人は襲いません。 斧や鎌はあのあたりにまだ落ちているかもしれません。 俊足というより健脚と言った方が良いでしょう。 山慣れしていたそうです。 噂3は事実です。 圏外です。 そもそも国に観測されていなかったので、地図上にも存在しておりません。 なので、そこにいた住人も戸籍を持ってはいませんでしたし、道も私道扱いです。 噂4は間違いではありません。 部落の人間のコミュニティーだったので、隔離されたというより、自ら外の世界と関わりを断ち切った、という感じです。 ですが、町にも繰り出ていたのも事実です。 今も昔も特別保護区などに制定されたことはありませんし、そもそもいまだに行政には見つかっておりません。 噂5は分かりません。 破壊はされていないと思いますが、あのあたりに車はありません。 山道を入ることは出来ませんし、セダンが心霊スポット巡りで来た若者の物だったのかもしれませんが、これは嘘だと思います。 これ以上詳しいことを話すのはできませんが、とにかくどこかに事実を書いておかねばいけないと思い、書かせていただきました。 乱れた文ですみませんでした。 もう犬鳴村は無くなった、この点だけよろしくお願いいたします。

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(時点)• 合計 118人 成立日 廃止日 廃止理由 近隣村との合併 かつては犬鳴地区に 犬鳴谷村(いぬなきだにむら)という村があった。 犬鳴谷村は(元禄4年)から(明治22年)まで()に存在した村。 現在のに位置する。 犬鳴村といわれることが多いが、これは誤りであり正式には「 犬鳴谷村」という。 地理 [ ] 宮若市のやには、のが流れている。 その源流の谷川に沿って犬鳴谷村が形成されていた。 この谷を本谷といい、主に集落はここに形成された。 ここから「ゆずりは谷」、「薬研谷」、「人参谷」、「あなぐら谷」など多数の谷に枝分かれしている。 現在は犬鳴ダム建設によって、犬鳴谷村の殆どがダムの底に沈んでいる。 谷の一覧 犬鳴谷村に面した谷の一覧。 薬研谷(やげん)• ゆずりは谷• 柚ノ木谷(ゆのき)• 下り谷(くだり)• 大鋸谷(おおが)• 人参谷(にんじん)• いちぎ谷• あなぐら谷• 落合谷(おちあい)• 辰谷(たつ)• 池の谷(いけの)• 往来谷(おうらい)• じいが谷• 砥石谷(といし)• 梅ノ木谷(うめのぎ)• 割谷(わり)• たたら谷 沿革 [ ] (4年)、 は吉川庄犬鳴谷に存在していたの維持管理のため、御譜代組足軽 数家(篠崎・藤嶌(藤嶋)・三浦・赤星・渡邊・水上・安永・寶部(たからべ)などの各家)に移住を命じ、この年に 犬鳴谷村が成立した(は犬鳴谷村庄屋兼足軽組頭として篠崎文内を任命)。 犬鳴足軽各家は、の公称、両刀の、との公的着用を許されていた扱いの上級足軽であったことが福岡藩文書に記してある。 ちなみに犬鳴足軽の俸給は、を除いて平均六石三人扶持だったらしく、現米ではなく支給分を現金に換算して支払われていた(犬鳴足軽総員分の大繩地として隣村である脇田の一部が充てられていた)。 犬鳴ダム奥には、で庄屋兼足軽組頭を勤めてきた篠崎家代々の墓石群が残っている。 犬鳴の各家には、福岡藩庁から貸与を受けていた御貸具足・藩候紋入り陣笠・鉄砲・刀槍などが最近まで遺存していた。 (明治初年)、篠崎・渡邊の両家は、他の各戸はに編入されたが、1872年(明治5年)卒族制廃止と同時に、犬鳴は福岡県庁から強制的に籍に編入された。 犬鳴各戸の菩提所は、浄久寺(浄土宗・宮若市乙野)と東禅寺(曹洞宗・宮若市湯原)に2分される。 最近の研究によると、御譜代組足軽の立場から、この2寺を菩提所としたとの説があり、浄久寺と東禅寺の過去帳に犬鳴の地名が見られるのは - (元禄6、7年)からである。 犬鳴谷村の年表 かつてはも犬鳴谷に訪れており、の有事に備えるためのの建設が行われた。 地名 村名 年 内容 な し が国内巡見、鞍手郡犬鳴山見分。 藩命により犬鳴山に諸木を植える。 から 久原越(現:)の道を開く。 年植林面積が五万坪に及ぶ。 から 犬鳴山から舟の櫓梶(ろかじ)、炭薪を多く切り出し、 勘場という役所を立てて支配する。 御譜代組足軽数家、城下地行町(現:地行)より犬鳴に移住。 篠崎文内、庄屋兼足軽組頭役を命じられる。 犬 鳴 谷 村 福岡藩庁により 犬鳴谷村成立。 、甥の好古と共に犬鳴山に来る。 日原神社勧請。 裏判所・・郡代・山奉行、犬鳴山見分。 により、若宮26箇所の村も含めて1193人に上った。 よりへのを送り、犬鳴山で栽培した。 に幕府へ献上。 犬鳴鉄山仕組始まる。 3月 犬鳴鉄山中止となる。 7月 建設が始まる。 5月 、を免じられる。 10月 加藤司書ら4人が。 11月 犬鳴御別館完成。 によりが廃止され、が発足する。 により、犬鳴では3月よりを借りてを開始した。 犬鳴から多数出征 式の借家を区より買い受けて、犬鳴小学校と称する。 犬 鳴 近隣の村落である乙野・脇田・小伏(こぶし)・縁山畑(へりやまはた)と 合併し 発足。 犬鳴は吉川村内の集落となる [ ]。 吉川村役場の解体資材を利用して犬鳴小学校を改築し、犬鳴尋常小学校と称する。 と合併して、犬鳴分教所となる。 二番野から辰谷口の道路が完成。 が終わる。 犬鳴隧道やその他の道路工事が完了し、府県道福丸箱崎線開通。 大 字 犬 鳴 により、はに編入合併する。 住所表記は「 若宮町大字犬鳴」。 の生産が終了した。 犬鳴分校が吉川小学校に併合し、廃校となった。 新犬鳴トンネル開通。 建設のため、住民は脇田区へ集団移転する。 日原神社を脇田に移転。 近隣の犬鳴隧道にて、工員が誘拐され焼殺される殺人事件発生。 の完成により、旧の大部分が水没した。 犬 鳴 により、とが対等合併し、となる。 旧集落があった場所の表記は「 宮若市犬鳴」。 近隣の犬鳴峠において伝わる「犬鳴村伝説」を題材にした、 の版が発売された。 近隣の犬鳴峠において伝わる「犬鳴村伝説」を題材にした が公開された。 江戸時代後期頃まで犬鳴に居住していた脇田の寶部家には西南戦争に出征した寶部乙吉が熊本鎮台司令長官「」から与えられた感状が現存している。 文化 [ ] 人口 [ ] 犬鳴谷村は、犬鳴川源流のに沿って形成されており、地理的に大きく3つに区分されている。 谷川のには6世帯、日原神社の周辺に13世帯あり、その中心に犬鳴分校と犬鳴店があったため、学業や買い物など村の中心的役割を担っていた。 域には9世帯あり、この辺りには観音滝やが祀られている。 2月(昭和61年)時点では、総世帯数28戸あった。 庄屋時代以前の村組織に関する文献は残っておらず不明である。 鞍手郡誌によると(明治元年)は31戸、(明治10年)は28戸、昭和初期頃は45戸、(昭和28年)は40戸、その後は離村者が増えたため、ダム工事直前までには28戸まで減少した。 総数 [戸数: 、人口: ] (天保10年) 戸数不明 143人 (明治5年) 31戸 141人 (明治8年) 戸数不明 141人 (明治10年) 28戸 126人 (明治22年) 24戸 118人 教育 [ ] 犬鳴分校の児童と教職員の記念写真(大正10年撮影) (明治5年)には犬鳴谷村唯一の教育機関として、民家を借りた式の小さな学校が設立され、11月(明治18年)に犬鳴小学校という名称が付けられた。 しかし初代の犬鳴小学校はが著しくボロボロであった。 そのためから(大正元年 - 3年)にかけて吉川村役場をしたときに出てきた材木を利用して改築し、立派なに建て替えられた。 校舎には、1部屋、宿直室、があり、には、、が備え付けられた。 10月(大正9年)には、と合併し、犬鳴分教場と改名された。 しかしの影響もあり、(昭和41年)に吉川小学校に併合され、90年余りの歴史をもった犬鳴小学校は、(昭和41年)をもってとなった。 閉校理由としては、犬鳴小学校の児童数が減少したためである。 またさらには犬鳴谷村に路線ができて交通の便が良くなったため、児童を吉川小学校に収容して教育効果を向上させるという理由もあるためである。 犬鳴分校の学校生活 1 校 時 2 校 時 3 校 時 4 校 時 5 校 時 6 校 時 1 年 国 語 算 数 理 科 合 同 音 楽 ま た は 体 育 国 語 算 数 ド リ ル 2 年 算 数 ド リ ル 図 工 国 語 理 科 ・ 社 会 補 習 ある日の時間割 分校経営の目標としては、基礎学力の充実に向け、特に国語と算数に力点を置いていた。 また山の子は表現力に弱い傾向があるため、や、などを多くとりあげていた。 授業時間割は複々式をとっており、基本的に1年生の授業は午前中、2・3年生は午後に分けていた。 ただしや、、屋外観察などは全学年合同学習としていた。 また犬鳴地区は自然や史跡に恵まれ、学習材料はいたるところにあった。 犬鳴御別館に行き、城跡をしのぶ池や石垣、加藤司書の記念碑にふれながら当時の頃の話をしたり、人参谷に行き犬鳴高麗人参畑の跡を探したり、また数多い谷川に入って魚をとり、時間を忘れて郷土に親しむ学習に精を出していた。 子供たちの家族は早朝山に炭焼きに行くので、学校に来るのを楽しみにして朝早く登校する子が多かった。 運動場は犬鳴谷で唯一の広場でもあり、皆のびのびと遊んでいた。 子供たちの遊びで主なものは、、、、、魚すくい、小鳥罠掛け、採り、柳虫くさぎ虫とり、や採りなど、山や川での遊びが主体であった。 の時期になると、夜釣りの餌にホタルを針につけて魚釣りを楽しんでいた。 年間行事• 4月 始業式、入学式、家庭訪問• 5月 身体検査、歓迎遠足• 6月 川遊び(水泳、魚とり)• 7月 終業式• 8月 夏季休業、始業式• 9月 地域探検• 10月 体育会、鍛錬遠足、社会見学• 11月 スケッチ大会• 12月 終業式• 1月 始業式• 3月 お別れ遠足、修了式 宗教 [ ] この節のが望まれています。 主に: 福地神社の所在の確認 ( 2018年8月) 日原神社 所在地 旧:鞍手郡犬鳴字下り谷192 移転後:宮若市脇田912付近 位置 : 主祭神 大国主命 大山祇命 菅原道真 市杵島姫命 山の神 天満宮 ふくっつぁま 等 村社 創建 犬鳴谷村の村社は日原神社(ひわらじんじゃ)で、元禄16年(1703年)に宮若市大字下の日吉山王宮(ひよしさんのうぐう)より勧請された。 御祭神は大国主命・市杵島姫命・大山祇命で奉祀(祭主)は日吉山王宮大宮司職の国井家。 犬鳴字勘場の割谷に沿った高台に鎮座しており、その両側には巨大なやが連なっていた。 境内には元々山中にあった「山の神」、「」、「ふくっつぁま」が合祀されている。 山の神は皿山に祀られていたもので、をとされている。 天満宮はの裏山に祀られ、祭神はである。 毎月25日の夕方にはのをお供えしてお参りしていた。 ふくっつぁまは、福地神社(旦ノ原の沿い)に祀られていたもので、いつ犬鳴にされたかは不明である。 これは毎年の夜にお参りして小豆飯をお供えしていた。 ちなみに日原神社創建前の犬鳴谷村崇敬社は糟屋郡久山町にある天照皇大神宮(通称・伊野大神宮)であったらしく、元禄五年に犬鳴谷村足軽一同から寄進された手水石が拝殿脇に苔むして現存している。 また建設計画による水没を避けるため、10月より宮若市脇田に移転された。 本殿とは、犬鳴谷村時代とほぼ同じ形でしっかり復元されている。 「山の神」、「天満宮」、「ふくっつぁま」の小祠は新しく作り直されているものの、外見は継承されている。 犬鳴ダム建設に伴った天満宮解体の時に神殿内部から歴代福岡藩主名を記した棟札が何枚も発見された。 山の神・ふくっつぁま 産業 [ ]• 代頃まで、木炭製造やなどが主産業であった。 犬鳴谷は農耕不適地が多かったため、近隣の脇田・湯原・下などで農地を購入し農耕に従事していた家が多かった。 は犬鳴住民の副業としてとが盛んで、和紙の方は現在の朝倉地方で生産されていた上座紙と共に鞍手紙と称され、献上品となり福岡藩の名産となった。 なお、犬鳴には幕府から福岡藩へ下賜されたの種を播きしたという畑跡もある。 江戸時代中期、(元年)幕府より福岡藩へニンジン種が下賜された時、栽培地の検討が行われ、、白水幽水の犬鳴谷村が適地という意見で決定した。 (12年)犬鳴谷で栽培された朝鮮ニンジンは幕府へ献上され、幕府御典医・井上交泰院その良品なるを称し、田沼主殿頭に示したという。 小字名で人参谷の地名が遺っており、別の所には畑跡も残存する。 昭和40年代頃までは木炭製造や農林業に依存していたが、その後、木炭販売不振や農林業の衰退などと共に、などの、勤務に従事する人が過半数を占めるようになった。 犬鳴字皿山には水車小屋が作られ、水車の動力によって線香(仏壇に供える線香および蚊取り線香)の原料である粉を製造していた。 3代目の製造は1940年(昭和15年)に栗山新蔵(故人)によって始められた。 栗山は1901年(明治34年)生まれで、福岡県八女郡串毛村(現・八女市黒木町)出身である。 叔父の紹介で1940年に家族で犬鳴に移住し線香粉の製造を始め、線香粉は薫物線香製造の老舗で福岡県久留米市野中町に本社のある株式会社天年堂に納入していた。 この線香粉製造も新幹線福岡トンネル工事による渇水の害により1973年ごろ操業を終えた。 その後も天年堂から線香粉の製造を勧められたが、川の水の流れが止まったことにより水車が動かなくなったこと、水車を修理する大工がいなくなったこと、さらに栗山が高齢を迎えたことによりやめたという。 江戸時代、吉川・中・山口地区(宮若市旧若宮町域)の年貢米や木炭などの林産物は宗像郡津屋崎の港に集積され、藩御用船によって福岡藩大坂蔵屋敷に運ばれていたという。 施設・遺構 [ ] 遺構の場所については、本記事上部にあるを参照。 (福岡四十七万三千百石) - (元年)に福岡藩庁によって建設された、福岡藩の最後のである。 時点ではとが残っており、犬鳴ダムの北側に位置する。 - に犬鳴谷村のを借用して創立した。 に吉川尋常小学校と合併し、犬鳴分教所として置く。 に吉川小学校と合併して廃校となった。 現在は犬鳴ダムの西側に犬鳴分校跡として残っている。 吉川小学校も2016年をもって廃校となった。 - (大正元年頃)、犬鳴谷住民のひとりが店を開いた。 日用雑貨、食料品、酒、タバコ、菓子、魚の干物などが販売されていた。 犬鳴谷唯一の商店であり、地元住民に重宝されてきた。 - (元年) 福岡藩により建設。 - (寛延元年) 幕府より福岡藩へ高麗人参の種を下賜。 犬鳴の人参谷・桂木谷・梅木谷にて栽培。 JR博多駅あたりにかつて人参町といわれる町名があったが、ここは人参会所があったところで、人参会所は福岡藩営で犬鳴谷産高麗人参(朝鮮人参)の入札場だった。 - 犬鳴の藩有林管理および犬鳴足軽の人事管理のため福岡藩により設けられていた役所跡• - かつて犬鳴分校近くにあった神社である。 「山の神」、「天満宮」、「ふくっつぁま」の3つの神様が祀られていた。 - 犬鳴山中の各所にあったが、現在は篠崎家及び藤嶌(藤嶋)家の墓のみが残っている。 - 犬鳴の木炭製造場であり、現在も窯跡が残っている。 現在も巨大な坑口がそのまま残っている。 犬鳴谷村の下谷橋。 竣工日は風化が進み解読不能。 ダムの水位が低い時のみ現れる。 村名の由来 [ ]• 昔、あるが犬を連れて狩りに来ていた。 その日はやけに犬が吠えるので、苛立った猟師は犬をしてしまう。 その直後、猟師はらしき生き物に襲われた。 そこで、猟師は犬が危険を教えてくれたことに気付き、犬を丁寧にした、というのが名前の由来。 なども同様の由来である。 この由来については、のに伝わると酷似しているので、それが間違って伝わったものと思われる。 江戸時代の地誌などには犬鳴谷村と表記され、犬鳴村とはされていない。 古文献によると犬鳴は(4年)成立の村落である。 福岡藩庁は庄屋兼足軽組頭職に篠崎文内を任命し、副として渡邉家が就任した。 明治になり藩が消滅した時、篠崎、渡邉両家は福岡県貫属士族となり他の犬鳴足軽は卒族として認められたが、(明治5年)の卒族廃止の時、平民に格下げされたということである。 糟屋郡久山町にあるには江戸時代中期、9月(元禄5年)に犬鳴足軽団から寄進された犬鳴山中と刻まれた御手洗石が遺っている。 幕末、福岡藩中老職加藤司書は藩の許可を得て犬鳴に藩主別館を築き動乱に備え、犬鳴別館などを守備するため犬鳴入口である脇田構口、犬鳴峠、猪野越え、薦野峠に番所を設置、犬鳴足軽を配置し警戒にあたらせた。 また藩主別館近くに楠木正成候を祀るを創建し御神体は正宗作の太刀だったということである。 怪奇談として藩政時代の頃、朝鮮ニンジン畑の監督と見廻りに向かう犬鳴足軽で藩庁から任命されたニンジン畑見廻役が山道でと遭遇し、腰を抜かし動けなくなったうえに、大口を開けた大蛇に飲み込まれそうになり、差していたで難を逃れ、山道を這いつくばって逃げ帰り、恐怖のあまり寝込んでしまい数日後には亡くなった。 寝込んでいた足軽によると大蛇の口の中は、どんな理由からか白髪だらけだったという話。 村名の別の由来 その昔、脇田の山中へ二匹の犬を連れ猟に来ていた猟師は遭遇した大蛇に襲われてしまう。 主人を救おうと犬たちは急いで村里に引き返し村民を連れてきたが、すでに猟師は飲まれていた。 二匹の犬は村民と共に大蛇を退治し村民は腹から猟師を救出したものの猟師はすでに息絶えていた。 二匹の犬は嘆き悲しみ、かわいがってくれた猟師を思い、一声、天に向かって鳴き叫び息を引き取った。 脇田の村人が不憫に思い猟師ともども犬を埋葬、供養し石積塚を築いたことから、この山を犬鳴というのが地名の由来。 この石積塚と言い伝えられる物は現在も犬鳴山中にあるが、存在地は非公開である。 また犬鳴村役場の存在も聞いてはいない。 犬鳴の各戸には御貸具足と言われる福岡藩庁から貸与された足軽具足、藩侯紋入り、、刀などが残っていたという。 犬鳴の小字名で勘場という所(犬鳴ダム奥の親水公園一帯)は犬鳴足軽の人事管理および藩有林の運営事務を行うための勘定場があった所と言い伝えられる。 地名で焔硝蔵と呼ばれていた所もあったが、この地は福岡藩庁が犬鳴足軽団に貸与していた鉄砲に使用する焔硝()を格納、管理していた蔵の跡地だと思われる。 その他 [ ] 都市伝説との関係• にというものがあるが、この伝説に登場する犬鳴村は、実在した旧犬鳴谷村とは全く関係なく、そのような村は存在していない。 犬鳴の通婚は宗像・糟屋地区が多く、村内で婚姻を繰り返していたわけではない。 都市伝説で犬鳴村と誤解されているところは糟屋郡久山町大字柳ヶ原(柳ケ瀬ではない)と宮若市大字脇田字コイゲ(コスゲではない)で犬鳴とは歴史的に無関係である。 柳ヶ原は現在、居住者はいないが、以前は最大で6軒の集落で茨木・荒巻・萩尾の3家が存在していた。 それぞれ「本家」「分家」「隠居」「中」「下」「お茶屋」という屋号を持っていた。 本家・分家・隠居・下は茨木姓、中が萩尾姓、お茶屋は荒巻姓だった。 茨木家は江戸時代以来、山林の大地主で柳ヶ原だけではなく、オオイゲ・コイゲ(宮若市大字脇田)の地主だった。 なお、柳ヶ原各家の菩提所は糟屋郡篠栗町津波黒の真光寺(浄土真宗西本願寺派)となっている。 宮若市大字脇田字コイゲは、終戦後に開拓された開拓地であり、近年頃まで脇田在住の方が管理をされていた。 また福岡県護国神社所有山林があることから山林内に神祠が祀られている。 都市伝説で犬鳴は地図に無い村とされているが、これは正保年間( - )福岡藩が幕府に提出した国絵図には、犬鳴山について詳細に記録せず(山林古老伝)から想を得たものだと思われる。 ただし、この年代頃には村落は存在していなかった。 その他の補足• 藩政時代は庄屋兼足軽組頭職の篠崎家が中心的存在であり、明治の行政区画再編においての町村合併時には付近の村と共にとなり、吉川村役場は脇田に存在していた。 脚注 [ ]• 国土地理院の空中写真• (御小姓与鉄砲足軽(おこしょうぐみてっぽう あしがる)という説もある)• 古文献および篠崎家墓碑銘文(享保十四年)• 鞍手郡若宮記• 鞍手郡若宮記• 鞍手郡若宮記• 鞍手郡若宮記• 犬鳴山古実• 犬鳴山古実・享保14年篠崎家墓碑銘文• 新訂黒田家譜• 下日吉宮資料• 犬鳴山古実• 安永博人文書• 黒田家譜• 新訂黒田家譜• 林政沿革調査資料• 林政沿革調査資料• 黒田家譜• 黒田家譜• 黒田家譜• 犬鳴尋常小学校 学校要覧資料• 藤嶋家文書• 毎日新聞メディア編成本部 毎日新聞戦後の重大事件早見表 1991年5月25日印刷 1991年6月10日発行 沢畠 毅 p. 183• , p. , pp. 148-152. , pp. 154-155. , p. 日原神社境内の石碑• 宗像郡の歩み• 参考文献 [ ]• 福岡県教育委員会編 『犬鳴 犬鳴川治水ダム関係文化財調査報告 1』、1990年3月31日。 関連項目 [ ]•

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【犬鳴村】あらすじと感想。尻すぼみな怖さと高島礼子の怪演

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犬鳴村も結局は実在せずだったんですね。 なお、有名な青森県の杉沢村伝説は、昭和13年に実際起きた岡山県の津山事件が源流のようです。 この津山事件は、かの有名な八ツ墓村のモチーフにもなりました。 これをどこかで聞いたことがある人が県内の杉沢地区にかつてあった集落に当て嵌めて、さらに人から人へと伝聞していくうちにドンドン話が大袈裟に膨らんで形づくられていったんでしょうね。 まあ、確かに昔の各地の集落で、中には問題のあった村もあるにはあったそうですよね。 それもまた噂話に一味を加えているのでしょうけれど…。 そして杉沢村も犬鳴村も共通するのは場所が特定出来ない。 人からの伝聞がほとんど。 事件が起きた噂。 実際それらしき集落や村人を見たという人も出てくるが、実際同行してもらいながら探してもまず見つからない。 どちらもインターネットが発達してから急激に広まった。 そして、決まってその付近の人たちはそんな話聞いたことがないという…これらが共通していますね。 まあ、乱暴な言い方になりますが完全なデマですね。 杉沢村なんかはテレビで何度も特集をやっていましたから。 高藤さん、こんばんわ。 コメントありがとうございます。 そうだったんですね。 津山事件は八ツ墓村のモデルになっている事は知っていましたが、犬鳴村にも影響していたとは知りませんでした。 また、おっしゃる通り事実を確認できない都市伝説の大半は語り部によって作られた話か大きな事件を面白おかしく脚色した話がほとんどなんでしょうね。 ただ作り話かと疑いながらでも「もしかしたら……」と考えてしまうのが都市伝説の魅力でもあると思います。 でも最近は徐々に都市伝説やオカルトブームが下火なのであまり新しい噂もでてこなくなってしまいまったのは個人的には残念です。

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